暴走する個性

個性ほど危うく、そしてあやふやな言葉はない。更に個性=自由と勘違いされ、何等かの捨て台詞的扱いがされる。


自由とは律の中に、そして個性とは常識の中に存在し、各バランスの上に成り立つものである。仮にそれらのバランスを覆す、または逸脱する自由や個性を望むのであれば、万人とまでは行かずとも、最小限、周囲の人間に対し理解と納得を促す言動を持たなければならない。


例えば私のような髭を伸ばした五十男が、車内一杯キティちゃんのぬいぐるみを飾ったり、寝るときにデディベアを抱いていたならば、それは個性とか自由とか趣味の問題に非ず、世間的に矢張りおかしくあり、周囲に理解を求めた所で却下されるのが普通だ。


だが今の社会はそれらを駆逐することもなく野放しにし、更にマスメディアは面白おかしく取り上げ、益々危うい個性を助長する。そして危うい個性は肥大化し、精神的変人は世に蔓延り、律と常識を伴う社会に適応出来なくなっているのではないか‥。


昨今の常軌を逸した事件を思うに、それらの犯人は確かに精神を病んでいるのかも知れないが、彼らの生活習慣を知る度、常識的には矢張り変な部類に入る態度だと感じる。
併し事件を引き起こすまでは、おそらく個性とか個人の趣味の範疇に於いて、世間から駆逐されることもなく、危うい個性は野放しにされていたのだろう。


個性や自由は人間の根源に成り得る基本的なことに違いはないが、常識を大きく反れるくだらない思惑は、他人に対してもそして己自らも拒絶しなければならない。加えて何事も自由と個性という、曖昧な言葉で片付けてはならない。