謹賀新年

歳の初めにあって今年の抱負なんぞをとよく云われる。昔々、若かりし頃はあちこちの店でおね~ちゃんの手を握り、そしてじっと目を見つめ「君とのふれあい」などと宣ったものだが、その度に「今年も同じこと言ってるぅ~」なんてことが多々ありました w


この年になると対人間の”ふれあい”は面倒なので無理に行う気は無いが、現在のところ写真が趣味なので自然との”ふれあい”は大事であります。でも”ふれあい”というイメージは悪く取ると”馴れ合い”といった趣もあり、自然との”対峙”といった方が厳しさがあって良いかも知れない。


さて抱負とは異なるが、毎年のことながら”誠”の一文字について考えさせられる。戯言のように捉えられるかも知れないが、”誠”とは客観的理法の存在から逸脱して捉えられたとき、”誠実に嘘をつく”、”誠実に人を殺す”という結論にも成り得る。


実は幕末にあって日本中がこの”誠”の意を模索していたとも云える。吉田松陰は自書”将及私言”に、そして儒学者伊藤仁斎は中国の朱子学や陽明学と異なる我が国独自の価値観を見出した。更に明治、哲学者西田幾太郎が著書”善の研究”に於いて、至誠とは真に精神全体(真善美)の最深の要求と述べ、愚生のような俗物には全く馬の耳に念仏状態。


併しながら”自他を欺かない誠実”という”誠”は、先述した如く在らぬ方向へ傾く危険性も顕著であり、理=真の意を追求し加担しなければ、本当の至誠とは未だ彼方に存在するのみである。