ある日のクリスマス・イヴ

平成になってから23日が休日となり、この日にクリスマスのパーティーを行う家庭が多くなった。斯く言う私の家もそうなのだが、毎年休めないので今年も家内と夕方頃から予約してあったケーキなどを引き取りに行く。そんな夕暮れの街中で人々の流れを眺めながら、36年近く過ぎたある日のクリスマス・イヴを思い出していた。

学生寮に入っていた私は、同じ寮に住む先輩から23日と24日の急なアルバイト加勢を頼まれた。それは各駅の改札口でのケーキ販売。24日の夜には用事があったのだが、いつもお世話になってる先輩の頼みでもあり引き受けることにした。
朝、工場でケーキを受け取り指定された駅の改札口で販売を始めたのだが、数人の厳めしい顔つきの男がケーキを売ったところでそう簡単には誰も買わない。が、それでも夜が近付くに連れ追加を必要とするほどになり、二日目も終えようとしていたところ更なる追加が届きバイトの終了時間が大きくずれ込んだ。


実は二日目の24日19時に彼女と待ち合わせをしていた。今と違って携帯のない時代、途中からの連絡を取ることは困難で、焦りながらもバイトが終わったのが22時、もう帰っただろうと思いながら待ち合わせの場所に行ってみた。


混雑する新宿駅の片隅で、満面の笑みと些か疲れた症状で手を振っている彼女がいた。こちらが気付く以前に私の姿を見つけた彼女がそこにいた。彼女の疲れた症状は寒いなか三時間も立ち続けていたこと、そして生まれながらの心臓の病気のせいだと直ぐに察したが、ずっと待っていた彼女に対し、驚きと申し訳なさが混然となって言葉が上手く出なかった。既に時計は23時に近付き予定していたことは全て流れ、彼女の体のことも考え馴染みの居酒屋に落ち着き、僅かな時間であったがそこで終電を待つことにした。

私は要約遅れた理由を話すことが出来たが、終始彼女は笑みを絶やすことなく和やかな時が過ぎ、背伸びしない学生ならではのプレゼントを交換した。彼女の降りる駅は人通りも少なく街の灯りも暗かった。歩くことも辛いような表情に家までおぶって送り届け、明後日帰省する私と別れた。彼女とは色々なことがあったけど、学生時代ずっと傍にいた。


卒業と共に私は帰郷することを決め、彼女に一緒に来ないかと伝えた。そして困惑した彼女はそれは出来ないと答えた。生まれつきの体の弱さが一番の理由で、行ったとしても私のみならず私の家族にも迷惑を掛けるということだったが、本当はその答えを聴く前に答えの内容は分かっていた。それでも愚かな私は熟慮することもなく、彼女に言わせてはいけない言葉を言わせてしまったのかも知れない。


やがて東京を離れる日が来た。電車の窓越しに涙を溜め、何かを伝えようとする彼女がいた。私はその口の動きを想像し頷くことしか出来なかった。帰郷を決めたことは悪くない、彼女の病も悪くない、ただただ人と人のすれ違いが起きてしまっただけだ‥と、自分に言い聞かせる新たな春が訪れていた。


帰郷した後の二年程は仕事で上京することが度々あり、都合が付けば彼女と会っていた。聴けば通院などに時間の融通が利く事務のパート勤務をしていた。だがそこから新たな発展は無く‥いや、互いにそれを抑えていたのかも知れないが、全く異なる環境の中で各々に出会いと別れ、そして生き方があり時間の経過と共に存在が薄れて来ていたと思う。


四年後、私は家内と結婚しその頃には彼女のことは遠い思い出となっていたけれど、とある初夏の日、共通の友人から彼女が亡くなったと電話があった。数日後、その友人から封書が届き、仕事で外に出掛けようとしていた私はポケットに仕舞い込み車に乗り込んだ。車を停め封を開ければ葬儀に集まった懐かしい同級生の面々と、生前の微笑む彼女の写真が同封してあった。


彼女は年を重ねていたけれど、あのイヴの夜新宿駅で手を振っていた時の笑顔と変わっていなかった。享年35歳、手紙には結婚の話しもあったようだが、結局は独身のまま両親に看取られ静かに眠るように息を引き取ったと書かれていた。私は思わず目頭が熱くなり、数年来流れたことのない涙が溢れてきた。様々な記憶が甦りとめどなく溢れて来た。


あれから20年、イルミネーションで飾られた12月の街並みと寒さは、今でも彼女を思い出す起因になる。もし彼女が生きていたならば、こんなに鮮やかな記憶にはならなかったかも知れないと考えている内に、気付けば助手席に戻ってきた家内が次の店に行こうと急かし、私はゆっくり車を発進させた。あの日のイヴの記憶を此処に置き去りにすることなく、次の目的地に向かって行った。