福島市飯野町 苅松田城

苅松田城は福島市飯野町(旧伊達郡飯野町)の南部、住所は字館にあった。


-以下は福島民報社 ふくしま紀行 城と館より引用-


・・・政宗飛躍の踏み切り台


苅松田城は戦国時代に飯野町南部に築かれた城。さほどの規模ではなく、構造も複雑ではないが、独眼流・伊達政宗が南奥州の覇者への”踏み切り台”になったともいえる場所だ。


天正十三(一五八五)年、十九歳の政宗は領土拡大に動いていた。当時政宗は米沢城(山形県)を本拠に置賜、県北地方を支配していた。侵攻の矛先は会津、仙道(中通り)へ向けられた。仙道では、四月に小浜城(二本松市)を本拠にしていた大内定綱が離反し、二本松領主・畠山氏や会津領主・芦名氏の影響下に入っていた。大森城(福島市)の城主・伊達成実は小浜周辺の確保を進言。苅松田城主・青木修理にひそかに接近して内応を勧める。定綱は近辺の城主から人質を取っていた。修理も弟・新太郎と五歳になる子の二人を差し出していた。内応を決意した修理は憂いを絶つため一計を案じる。大内氏家老の子三人を苅松田周辺でのキジの子狩りに誘う。閏八月六日の夜明けとともに狩りを始め、十四、五羽を捕って城へ帰り、酒宴を開く。修理は酒を飲むふりをしながら大酒を振る舞った。ころ合いを見計らって三人を寝間に案内し、刀を預かる。寝入りばなを武装した家臣が襲い、取り押さえる。さらに修理は小浜に出陣して近辺に放火した。互いの人質は後日、交換された。
修理立つ ー の知らせを受けた政宗は配下の原田左馬助らを大森城へ即刻派遣。原田らは苅松田近くの飯野に、成実は立小山(福島市)に布陣する。十二日には政宗が杉ノ目(同)に到着、修理に恩賞として刀一振りを与えたという。苅松田城を”橋頭堡”とした政宗は二十四日、大内氏側の小手森城(二本松市)を攻撃する・・・


-引用 終わり-


という訳で苅松田城跡、行って参りました。飯野はいつも仕事で行くので凡その場所は聞いていたが今ひとつ分からず、若しかしてこの辺りかなという所に翁がおり尋ねてみればドンピシャだった。城周辺の道路を作る際に発掘作業を行い、建物の柱跡や16世紀後半の陶磁器などが出土している。
そしてこの爺が言うにはいつもいつも人が尋ねて来て城は何処だと尋ねられるようで、「城の入り口まで案内してやっつぉい」ということになり、後を付いて行ってみたらそこはジャングルだった。

竹やぶや身の丈ほどある雑草を切り倒し、殆ど中腰のまま進んで行けばありました。この先に本丸に登る箇所があるようだが、ちょっと進めるような状況でなかったので引き返す。最初は袖捲くりだったので二の腕が傷だらけになったが、涼しくなって草々が無くなったらまた訪れてみたい。


苅松田城の西側には宮川と云われる川があり、苅松田不動滝がある。城に来る途中に苅松田不動滝に道標があるが、爺曰く此処からも250m行けば着くとのことで山道を下って行った。幹線道路から見れば苅松田城の裏側になるが、おそらくこの辺り一帯が城としての建物があったと思われる。

暫く行くと簡素な橋があり、下方には沢が見えるのだが道が見つからず引き返し、先程の苅松田不動滝の道標へ車で向かう。田んぼの中の細い悪路を暫く行くと蓮が栽培されており、これで蓮根を取ると思われる。滝まで150mとなると更に悪路となるが、止まらずに躊躇せず進む。

到着してみれば滝として落差がある流れは下方にあって、降り口を探してみたが見当たらない。というか、数日の雨のせいもあるのか先程の城跡周辺や此処も湿気や雑草が凄く、直ぐにでも蝮とご対面出来そうなので無理をしなかった。上の方へ歩いて行くと、川床が剥き出しになった不動沢があり、此処からもっと上に登れば先程の橋がある筈だ。それにしても湿度が高く、今日は大して歩いた訳じゃないが汗が流れ息が切れる。


さてさてその後の苅松田城だが、小浜の大内氏が会津に逃れ、二本松・畠山氏と政宗の父・輝宗が亡くなる粟の巣の戦いから蘆名・石川・二階堂・白河結城・相馬・岩城などの諸氏、三万の連合軍を敵に回す人取橋(本宮市)の合戦で勝利し、畠山氏の滅亡を経て、安達地方がほぼ政宗の勢力化になると橋頭堡の役目を終え歴史から姿を消す。尚、城主であった青木氏は政宗に臣従し、禄高100~361石、仙台藩の中位の家格となる。


所で戦国時代ではあったが、城跡がこのように朽ち果ててしまうか疑問に思われる方も多い筈だ。江戸時代になる迄、各国の領主は子供や兄弟、そして家臣に出城を与え強固な守りとした。実際、福島県内だけでも城や砦、館跡は二千近くあると云われるが、徳川幕府の一国一城制度によって多くは取り壊され、山野や田畑と化し、学校や公園の敷地なっているものが多数見受けられる。
併し朽ち果てる大きな理由の一つは行政の力量不足である。苅松田城は平成10年前後に大掛かりな発掘調査が行われたが、その後は各画像の如く放ったままで見る影もない。飯野の住人でさえ場所を知らない人が居り、飯野だけのことではないが史跡の啓蒙&美化活動が必要だと思う。