杜子春

昔々、小学生の頃だったか、国語の教科書に 「杜子春」なる物語があった。中国、唐時代の伝奇小説を芥川竜之介が翻訳したものだと記憶しているが、その内容は更にあやふやな記憶ながら唐の都に仙人になる夢を持つ杜子春という若者がいた。ある日仙人に出会った彼は、自分も仙人になりたという願いに対し仙人はこう答えた。


「それではこれから先、何があっても口を利いてはならない」

暫くすると彼方から二頭の馬がやってきた。併しよく見れば姿は馬ながら顔は人間であり、その顔は既に亡くなった彼の両親であった。周りにいた鬼達は鞭で馬を打ち、馬は痛みに耐えながら杜子春に助けを乞うた。杜子春は駆け寄り声を出しそうになったが、仙人との約束を思い出し暫し静観するも、鬼達の容赦ない攻めを目の当たりにし遂には「お父さん、お母さん」 と声を発した。気が付くと何事もなかったように、そして夢から醒めたように彼は夕暮れの都路に佇んでいた。そこへ先程の仙人が現れこう言った。


「お前は仙人になることは無理のようだ。だがあの時お前が本当に声も出さず両親を助けることもなかったら、私はお前を殺していただろう・・・」



以上が物語の曖昧なる記憶の内容だが杜子春と両親の間柄は如何なるものだったのか、即ち愛情溢れた環境であったのかそれとも憎しみに満ちた環境であったのか、この物語を思い起こす度に心に過ぎるものがある。


それは恨みや憎しみという人の陰険なる心についてだが、仮に杜子春と同じ状態にあって肉親が‥いや、肉親に限ったことではないが、恨みや憎しみの対象でない人が鞭打たれる様を目の当たりにした際、助け船を出す行為は当然のことだ。併し鞭打たれる人がもし恨みや憎しみの対象であった場合はどうなるのか。


個人的に今まで人を殺したいと思うほどの憎しみを持つことはなく、甘い考えだと云われればそれ迄だが。おそらく私は助ける方向へ傾くだろう。だが強固なる憎しみの塊と化した心が更なる悪へと加担した時、その人は既に人に非ず、いつも心は苛立ち顔は険しく邪悪なる鞭打つ鬼達と同化している。


憎しみ恨みの度合いこそ色々あれど、自らを修羅の道へと追い込み鬼の如し様相と言動で生きるより、逸早く心を解き放ち、陽光降り注ぐ新たな道を歩むことこそが幸せな在り方だと思う。