我が攘夷論

幕末に於いて日本人は全て尊王攘夷思想であり、帝の勅許を待たず開国を決断した井伊直弼も同じである。ではなぜ井伊は開国を決断したか、それは幕府は既に通商のあったオランダより、凡その海外情勢や国力の差を知り、尚且つペリーが何時頃来航するといった情報も得ていたのである。
後年、井伊が判断した行為に対し様々な意見が聴かれるが、個人的には日本を救った好決断だと思っている。仮にこの時、頑なに鎖国の政策を取り続けていたならば、欧米列強の武力により日本は植民地と化し、中国や朝鮮半島と同じ運命を辿っていた。


本来、尊王と攘夷は別々なものであり尊王に付いて此処では触れないが、何れにせよこの井伊の独断により、日本は過激的攘夷派と攘夷を踏まえた上での開国派に二分化される。
前者は薩摩、長州、土佐が中心になり、生麦事件、英国公使館焼打ち、開国派要人暗殺、薩英戦争、馬関戦争などを行うが、何れも眼前の外国人を打ち払うといった了見の狭い行動であり、薩英及び馬関戦争に於いては外国軍艦の艦砲射撃により大敗北を喫し、多くの犠牲を払い要約外国との力の差を知ることになる。
片や幕府・開国派には佐久間像山や勝海舟など、速やかに国を開き、外国の技術や文明を導入し国力を蓄え、日本国が一丸となり、外国からの圧力に対し「NO」といえる国造りを目指した。


個人的に薩摩、長州、土佐の攘夷を小攘夷、そして開国派による攘夷を大攘夷と定義付けているが、それでは現代に生きる私は如何なるものかと問われれば、攘夷論者といって差し支えない。
併しそれは日本に住む外国人に対しての小攘夷に非ず、日本の歴史、文化、そして伝統を尊重する外国人に対しては何ら敵意を持つことはないが、過去の歴史を捏造し日本国憲法を蔑ろにしながら差別や人権といったことを不当に要求する在日朝鮮・韓国人、強いては在日本朝鮮人総聯合会、在日本大韓民国民団に対しては断固たる攘夷論を掲げる。


更に日本人でありながら以上の人種、団体と結託する民主党、公明党、創価学会、そして反日極左も然り、強い憤りと共にこれら売国奴に毅然として反抗の態度を表す。

・・・と、以前の日記を読み返していたらこのようなものがあった。
過激といえば過激かも知れないが、凡その考え方は今と何等変わっておらず、果たしてその頃より少しは進歩があったのか否か、我が生誕の夜につくづくと思う。