会津藩降伏の日

明治元年(1868年)11月06日(旧暦09月22日)、薩長のクーデターにより朝敵とされ、徳川幕府への遺恨を全て被った会津藩が一ヶ月の篭城の末に無念の降伏となった日である。会津藩は幕末に於いて強靭を誇る雄藩であったが、敗戦の要因として幾つか思うに、古い体制への拘りと長い京都守護職という役目に国費を費やし、武器等の洋式化・近代化への遅れがあったと思う。

「会津藩降伏図」 中央の裃姿が容保公、右は薩摩藩、中村半次郎(桐野利秋)。


そして戊辰の役が東北に移行すると、領内となる日光口や新潟方面への出兵も余儀なくされ、兵力の分散化により統率が取れなくなっていたことだ。加えて共和国家を目指した奥羽越列藩同盟から次第に裏切りや辞退する諸藩が相次ぎ会津藩は益々孤立して行った。


併しそれら以上に、会津藩首脳の洞察力に問題があったかも知れない。例えば日光口から北上する官軍を迎え撃つ白河の戦いに於いて、何故、容保公は予てより恭順を唱え罷免となった家老、西郷頼母を総司令官に仕立てたのか。更に西郷自身も旧い戦略に捉われず、新選組々長、斎藤一の進言を聞き入れていたならば、また違った様相を見せていたかも知れない。実際この白河が落ちた直後から奥羽越列藩同盟は先ほどの裏切りや辞退が起こり、次第に敗戦の翳りが見えてきた。


鶴ヶ城周辺の戦いに於いても、会津藩の首脳陣は新選組副長、土方歳三の作を諮ることなく、官軍は一気に母成峠から会津城内に雪崩れ込んで行く。手薄な会津藩は若い士族からなる白虎隊を出陣させるが、新兵器を手に怒涛の如く押し寄せる官軍に成す術はなく、土方歳三率いる新選組や大鳥圭介率いる幕府歩兵隊とてものの数では無かった。


以前、会津では薩長人の宿泊を断る宿があったり、今でも婚姻を認めない風潮があると聴く。1986年には萩市が会津若松市に対し、会津戦争の和解と友好都市締結を進上したが、会津若松市側はこれを断っている。というのも、会津戦争に於ける官軍側の行動は会津藩士を賊徒とみなし、略奪、強姦、虐殺と勝てば官軍とは全くこのことで、官軍側の横暴には目に余るものがあり、鬼の官兵衛と呼ばれた会津藩家老、佐川官兵衛はこの悲惨な光景を目にし、「これが錦旗を掲げた皇の軍隊のやることか‥」と、嘆き悲しんだという。


後に日本は富国強兵、云わば軍国主義路線を歩むが、一旦成りを潜めていた攘夷思想が次第に頭を持ち上げ太平洋戦争へと突入する。これは個人的な意見だが、この古臭い攘夷という思想は、幕末から昭和初期まで日本人の根底に脈打つ理念であり、太平洋戦争とは攘夷思想の昇化した姿だったのかも知れない。