旧国道49号線、戸の口原古戦場

中通りの中心部より会津へ向かう際、多くの方は国道49号線を使うと思うが、猪苗代湖北西部の十六橋水門から強清水間にある旧国道の存在をご存じだろうか。今回は撮影を早めに切り上げたので、帰路の途中にその旧国道を通過してみました。


会津と二本松を結ぶ旧街道は北新道と南新道の二つがあり、旧国道49号線は北新道が使われていた。昭和41年に現在の国道49号線が完成し旧国道は市道になりました。昔々オートバイに乗っていた頃、歴史が好きで会津若松にはよく通っており、会津藩が降伏開城した11/06の夕刻に此処を通った際、急にエンジンが不調となり林の中に白い靄と大勢の声を聞きました。あれからこの道を通ることはなかったが、何故かこの日は導かれるように行きました。

旧国道は赤線部になります。走行したのは白丸部の強清水農村公園から戸の口原古戦場碑間の凡そ1kmです。因みに黄色矢印を西進すると滝沢峠から飯森山方面となるが、現在は新たな道になっており、本来の滝沢峠には未だ行ったことがありません。

強清水農村公園から進むと直ぐに上画像の案内板が立っていました。その先にも多くの案内板が立っていたが、以前はこんなになかった記憶がある。道は七割ほどが未舗装になります。雪が少なく走行できたがカチンカチンに凍っていました。冬季なので草木は枯れ見通しは効くが、夏季は鬱蒼として道幅も狭くなります。

下画像は白虎士中二番隊が露営したと云われる山中。こんな寂しい所で冷雨の一夜を過ごす心中はどれほど辛かったか、そしてその後の経緯を思うとさぞかし無念であったろう。

寒い中でも水の流れが聞こえます。冒頭地図画像の黄色丸部は赤井谷池沼植物群落になり、聞くところによると春夏には訪れ人が多いようだ。

これらは冒頭地図画像の白丸部、戸の口原古戦場碑にある立て看板や石碑です。

戸の口原古戦場碑には夜泣き石なる石と案内板がありました。何故にサンダルが放置されていいるのか説明を読んで納得しました。それにしても芦名時代とは450年ほど昔のことになる。


さて先入観があるからか、車から降りて写真を撮っていると次第に頭が痛くなりました。そして現国道49号線に出ると鼻から何かが流れ指で触れると鼻血でした。普段から鼻血など出ることはないのだが、帰宅してからは右側頭部から耳にかけて痛みます。


白虎士中二番隊が自刃した飯森山も無性に寂しい気持ちになりあまり行きたくない場所だが、機会があれば先述した滝沢峠周辺も散策したい。そういった先人が生死を賭けた場所・土地には何かしら感じるものがあり、訪れて穏やかな気持ちになれることを望む。