ふきのとうといふもの

冬の神は去り難く、または悪戯心に溢れ未だ春は遠い。されど時折り日溜まりの中に佇めば、微かに土の香りが春の色香が漂って来る。自然は時と場所を超越し森羅万象の如くその盛衰を繰り返す。そして日々の忙しさの中に人はふと足を留め、そんな移り行く季節の芳香に見惚れ溜息を吐く。

ある町に顔見知りの老夫婦がいる。彼等は日当たりの良い斜面の頂に住む。その斜面には遠い春を待たず、年末ともなれば小さな小さなふきのとうが一斉に顔を出す。時分となり私用で彼らの宅を訪れる度、頂戴する味は実に苦い苦い旬食だ。時過ぎて春近く、花が咲きかけたふきのとうはその苦味も穏やかになり大振りの天麩羅などに喰らい付く。


何れにせよふきのとうは早春のまだ明けやらぬ若心の井出達で春光を待つ生きもの。私はそれを食し舌に伝わる苦味に忘れかけていた去りし昨春の出来事と、やがて訪れる輝春の暖かさを脳裏に思い想像する。


「旬のものを食べると長生きする」とは、江戸時代、死罪を言い渡された罪人に端を発した謂れであるが、ふきのとうの栄養分などなど果たして何が体に良いのかさっぱり分からないものの、例えば正月に餅を食しながら旧年と新年に思いを馳せるように、季節季節にその時のものを口に運び、過去と未来の狭間に立つ己を常に省みる姿こそがその言葉の意義なのかも知れない。