斎藤 一の謎

墓碑が福島にある為か、私は新選組隊士の中で斎藤 一に何処か惹かれるものがある。彼は1844年、旗本鈴木家家臣、山口祐助の次男として生まれ、江戸では近藤勇の試衛館に出入りしていたと云われている。

その江戸で刃傷事件を起こし姿を隠すが、京都で近藤勇の新選組に加わる。65年、現テレビ朝日の「新選組血風録」では土方と共に函館へ渡るなど史実と異なる部分も多々あるが、戦前辺りまでは謎が多い人物であった。


因みにその「新選組血風録」での斎藤像は、質実剛健で朗らかな人柄を左右田一平が演じており、これも実際の斉藤 一の姿を模索していたといえる。04年のNHK大河ドラマ「新選組!」に於いての斎藤像は、質実剛健は変わることなく何処か怪しい、即ちミステリアスな雰囲気を醸し出しているが、もしかするとこちらの方が実物に近いかも知れない。


併しこの両方のドラマにしても、また「壬生義士伝」や「実録 新選組」などの映画にしても、斎藤 一の実年齢の描き方が宜しくない。というのも、イメージ的に初期新選組の最年少は沖田総司のように思われがちだが、斎藤は沖田より二つ下になり藤堂平助と同年になる。
即ち劇中に於いて、試衛館のメンバーが斎藤を ”さん” 付けで呼ぶことはなく、反対に斎藤が藤堂以外を ”くん” 付けで呼ぶことはないと思われる。とはいえ、当時の生年月日は不祥なことが多く、沖田にしても実際は1842年か1844年か定かじゃないようだ。


斎藤は会津の敗戦が濃厚になった際、北へ向かおうとする土方歳三に対し、土方と仲違いしてまでも断固会津に残り戦うと宣言する。先程の年齢もそうだがこれも謎の一つであり、何故に斎藤は此処まで会津に固執したのだろうか‥。
そして会津藩が不毛の地、斗南への国替えにも同行、高木時尾との二度目の結婚の際は旧藩主松平容保が上仲人を勤めているが、旧とはいえ藩主が藩士の仲人を勤めるとは異例のことではなかろうか。

つまり会津藩との親密ぶりを考えるに、斎藤 一の本当の姿は会津藩の密偵のようにも思えて来る。江戸での刃傷事件はその密偵活動の一部であり、年齢を誤魔化し新選組が会津藩お預かりになると会津藩の指令の元入隊し、流山での敗走では隊士を引き連れ会津に一番乗りしたのも彼である。
この辺りのことは赤間倭子氏の著書にも書いてあるが、 ”山口 一” ⇒ ”斎藤 一” ⇒ ”山口 二郎(次郎)”⇒ ”一瀬伝八” ⇒ ”藤田五郎”と度重なる改名も身を隠す手段であり、会津藩密偵と考えると全ての合点が行く。


新選組隊士は昭和初期まで長生きした者もいたが、その多くは隠遁生活を送る中で斎藤 一は痛快なことに現警視庁、警部補に任命され、後の西南戦争に豊後口警視徴募隊の抜刀隊として参加、大砲二門を奪うなど当時の新聞に報道される活躍をしている。


1915年9月28日、胃潰瘍ないし胃がんにて死去。享年72。床の間に座ったままの大往生と云われ、墓は会津若松市の阿弥陀寺にある。


以下、会津に於ける斎藤 一の戦い


■母成峠の戦い


慶応四年八月二十一日、二本松藩を侵略した薩長土を中心とする西軍は、現在の本宮市、大玉村に集結。会津若松城下に侵攻すべく幕軍及び新選組が警護する母成峠に一斉攻撃をかけた。東軍の主流である会津藩兵は白河からの侵入に備えた勢至堂口、郡山からの中山口の守備についており、険路のため最も可能性の低いと見込まれていた二本松からの母成峠は伝習隊、新選組、桑名藩ら旧幕軍に任されていた。


土方歳三は大鳥と共に旧幕軍を指揮しており、この頃には奥州列藩同盟との連携強化のため仙台へ部隊を移動させようと決めていた彼らは、会津藩との約束からこの母成峠の守備を行っていたが、予想に反する西軍の一斉攻撃を受け壊滅的な敗北を喫する。この敗北の後、土方は会津藩家老に対し猪苗代への会津兵力集結を進言したが聞き入れられず、西軍はそのまま会津城下へ侵攻した。当地での東軍殉難者は88名に上った。


新選組約70名を率いていた山口次郎(斎藤一)は、この戦の混乱で一人隊からはぐれ後日会津若松に現れている。山口と共に会津新選組を指揮した安富才助、島田魁、中島登、横倉甚五郎ら京都以来の新選組隊士、甲陽鎮撫隊から参加の斎藤一諾斎らもこの母成峠で奮戦した。


■会津新選組終焉の地 如来堂


如来堂は鶴ヶ城より西北西へ約四キロ、農家の庭先のような細い道を通り抜けると現れる。NHK大河ドラマ「天地人」で放映されたように此処は1600年、会津の支配者、上杉景勝が対徳川家康戦を想定し築造しかけた神指城(こうざしじょう)の一角と云われる。


母成の戦いの後、敗走した新選組隊士は一旦塩川へ向かうが、仙台へ向かい体制を整える幕軍(土方も含む)と、会津に留まり戦闘を続けようとする山口次郎と意見が対峙する。山口次郎と志を共にする隊士十数名は慶応四年九月頃、ここ如来堂にて陣を置く。九月五日、長州藩主体の越後口より攻め入る会津征討軍に急襲され、会津に留まった新選組は全滅したと云われた。併し後の生存者記録によれば、山口次郎を始め七人の隊士が生き残ったようだ。


■白河口の戦い 後日upの予定・・・多分 w