会津平と只見線迂回ルートについて
日頃只見線を撮っている中でネットでの画像やブログ、そして各書籍を参考にしており、撮影ポイントや電源開発などの歴史を知ることが出来る。併しながら会津若松駅から南進し阿賀川を渡る大川橋梁手前で西進。そして会津高田駅からは北進し会津坂下駅へ至る大きな迂回ルートについて、その経緯・仔細などを記した資料がなく予てより疑問だった。

(会津平の只見線駅)
実際のところ会津若松駅と会津坂下駅間の道路距離は凡そ13km、会津平を迂回する只見線は21.6kmとなり、態々遠回りする施設当時の経緯を自分也に考察してみたが、それには会津に於ける鉄道建設の歴史も些か関わりがありその辺りも記しておく。
明治時代中期、会津に鉄道建設の話しが持ち上がり白河街道、下野街道などの主要街道で施設候補運動が始まる。白河街道は現在の国道294号線、勢至堂峠を越え天栄村、白河市に至るルートであり第一の候補となるが、安積疏水の完成により発展著しい郡山に接続する現磐越西線の着工が決定する。尚、会津若松から新潟へ下る際、地図上では会津坂下へ進むのが理に適うルートだが、喜多方へ北上したのには後述する野岩羽ルート関連など様々な経緯があり、それについては省くことにする。

(豊穣の会津平と磐梯山)
一方、会津藩が参勤交代で使っていた下野街道を南進すれば、大内宿や南会津を経て栃木県に至り、鉄道としては会津若松を経て米沢も結ぶ現在の国道121号線に準じた野岩羽ルート構想があった。併しながら地元の要望が早急に実現することはなく、西若松駅~上三寄駅(現芦ノ牧温泉駅)間の開通は昭和2年(1927年)のことになる。
終点の会津滝ノ原駅までの開通は昭和28年(1953年)、その一翼となる喜多方駅~熱塩駅間の日中線は昭和59年(1984年)まで存在していたが、国鉄時代からの構想は叶うことなく、現在は第三セクターの会津鉄道が西若松駅と会津高原尾瀬口駅間の運行を担う。
「福島県柳津ヨリ只見ヲ経テ新潟県小出ニ至ル鉄道」・・・磐越西線開通後、鉄道建設から遠ざかっていた会津平西部域だが、大正11年(1922年)の改正鉄道敷設法別表に明記され、明治39年(1906年)に施行された軽便鉄道法の下、まずは大正15年(1926年)に今回の題目である迂回ルートの会津若松駅と会津坂下駅間が開業する。
軽便鉄道法とは地方鉄道の建設を推進するための簡易な条件の法律であり、ローカル地域を主にする私鉄路線が多数敷設される。尚、只見線建設が始まる以前には一部改正された。

(1970年頃の会津高田駅)
さて此処からが本題になるのだが、軽便鉄道法には地域開発・振興の目的があり、会津米や農産物、本郷焼などの特産物と人員を乗せ、細目に大沼郡を巡るルートは磐越西線の開業以降、長らく鉄道と疎遠になっていた地元に大歓迎されたようだ。また磐越西線が喜多方に向かうことにより除かれた会津坂下、更には野岩羽ルートに於いて施設予定であった、西会津方面を通過するといった目的・意図があったように思う。
続いて現在は大川ダムなどにより治水されている阿賀川についてだが、古来より頻繁に大洪水を起こしその度に川の流れが変わったと云われ、長い歴史の中で肥沃な扇状地形に至ったと思われる。併し江戸時代初期の1611年には会津地震もあり、この“暴れ川”一帯への人々の定住は多くはなかったようだ。

(向井羽黒山城跡から阿賀川、只見線大川橋梁を望む)
近年では会津若松駅と会津坂下駅間が開業する13年前の大正2年(1913年)、台風で阿賀川流域に強い雨が降り続き大洪水が発生。死者・行方不明者13人、堤防決壊288カ所、家屋全壊・倒壊35戸などの被害が生じ、少しでも洪水被害を避けるべく会津平を横断するルートではなく阿賀川の上流側、向井羽黒山沿いにルートを取ったとも考えられる。
以上、簡易的な軽便鉄道法には議事や工事関連の十分な記録が残っておらず、それが今以って迂回ルート施行の経緯が分からない最大の理由であり、地域開発・振興の推進や洪水の件も私の推測の域を出ておらず、異なる視点、経緯をご存じの方は是非ご連絡頂きたい。