なぜ私は荒野の写真に”4.698日”と名付けたか

M.Hermitage

以下は素人ながらに思いつくまま綴った駄文にて‥


私のようなアマチュアでも、撮影先などで巧い写真の撮り方を尋ねられることがある。巧い写真を撮るためには技術や感性が必要だと思うが、それらはシャッターを切る回数を重ねれば、遅かれ早かれ必然的に身に付いて行くものだ。 それゆえ私は、そうした技術の集積とは少し異なる視点、即ち”タイトルを付けたくなるような写真”、或いは”撮った瞬間にタイトルが浮かぶような写真”の撮影を心掛けている。


写真は言うまでもなく、目から入る視覚情報である。そこにタイトルという文字情報を付け加える。するとどうだろう、見る側はその言葉を手掛かりに、写真の外側へと想像力の翼を広げ、あらゆる方向性を思い描くようになる。 またタイトルの内容によっては、撮影の時間帯や背景まで知ることさえ可能になる。つまり添えられたタイトルを紐解くことによって、視覚情報に撮影者の心情や状況が乗算され、写真という平面的な存在に、技術の集積とは異なる”物語り”という厚みが加わるのだ。


作例という程ではないが、数年間、同じタイトルを使い続ける二枚の画像をupする。

この画像は毎冬撮っている会津川口駅だ。一見しただけでは川沿いの駅に列車が停まっている状態で、夜明けなのか夜なのかの判断はつきにくい。だが「起動する街」というタイトルを冠したことにより、”起動”というワードから夜明け前、そして夜明け前=始発便の暖機運転‥といった物語りが連想出来ると思う。 因みに同風景を秋の夜に撮った際のタイトルは、「夜の駅、乗客様の影もなし」とした。

此方は四年前の一月に撮った画像。情報が無ければ荒涼とした大地のモノクロ写真にしか過ぎないが、「4.698日めの太陽王」と冠されたタイトルにより、見る側はこの数字を紐解くことになるだろう。そして改めて太陽の存在を意識するようになるかも知れない。 おそらく此処での撮影は景観が変わるまでずっと続くが、その度に日数を変えた同じタイトルとするだろう。


二枚の画像はほんの一部だが、私にとってのタイトルは、単なる後付けのラベルではない。それは確固たるイメージそのものである。その言葉が持つイメージを自分の中で膨らませ具象化して行く。そうしたプロセスが、私が写真を撮る上での大きな糧となっている。