あれから五年・・・

五年が過ぎようとしている。その頃の画像になるが、当時の国道六号線は双葉郡楢葉町のJ-VILLAGE入り口交差点から先は立ち入り禁止区域となり、他府県から応援に来た各警察車両が並び、TVの画面でしか見たことが無かった防護服を着た人々がバスやワゴン車に乗り20k先の第一原発との間を往復していた。
J-VILLAGEは1997年に開設された日本サッカー界初のナショナルトレーニングセンターであるが、震災直後から国が管理する原発事故の対応拠点となり、現在もトレーニング施設は活動閉鎖している。

J-VILLAGEの敷地内には入ることが出来た。その敷地内での道路誘導員が明らかにこれから子供を産むであろう年代の女子であったが、果たしてあの娘は今どうしているのだろうか、一人寂しそうな姿が今も頭から離れない。

四ツ倉から塩屋崎灯台への県道382号線、海岸沿いには松林が続き風光明媚な道路であったが、多くの松は潮水で枯れてしまい、当時は沿岸にガレキが入った袋が延々と積み重なっていた。下の壊れたコンビニは今も当時のまま残っている。

愚生は震災の年の秋頃からいわき方面へ頻繁に足が向くようになり、変わり行く海岸沿いの様を見てきた。それはその度に様相が変わり、特に薄磯や豊間、そして永崎海岸や小浜海水浴場などでは車内から海が見えない程の護岸工事になっている。
今現在、いわき市周辺の海岸・沿岸で崩壊した家屋や散乱したガレキなどを見かけることは少なくなってきたが、以前は各海岸にあった供養塔、そして砂に埋もれた人形や食器類などを見る度に物悲しくなった。

一昨年の初秋より国道六号線が通行可能となり、双相地区との往来が震災以前同様に容易になった。併し建物や市街地への道路はバリケードが設置され警備員が立ち、許可証がないと六号線を外れることは出来ないが、車内から見る富岡、大熊、双葉、浪江の各町々は震災当時の痛々しい姿がそのまま残っている。

震災後あちこちと歩いて感じたこと、それは当然であるがその場に立たないと何も理解出来ないということだ。そんな意味から同じ県内でありながら会津方面とはかなりの温度差を感じた。一例として震災の翌年だったか、南会津郡下郷町の大内宿に行った際、駐車場の係員が観光客に風評被害で人が来なくて大変だとアピールする様子を見聞きし、咄嗟に声を荒げたことがある。


憤った内容は忘れてしまったが、凡そは震災で会津方面はこれといって被害があった訳ではなく、更に原発事故の影響とて皆無に等しい環境にあって、風評被害云々以前に浜通りは人が来るとか来ないとかそれ以前の問題だ。更に更にこういう時に人が来てくれるのだから駐車場代など徴収するな、序でに不味くて高いソバなど食わせるなといった感じだったと思う。


長々と思うことを書いてきたが、自分也の意見や考えをまとめようという気持ちは全くない。ただ一つだけ述べるとするなら「関東の電気は関東で作れ」ということだ。
そして今程のように同じ県内であってもかなりの温度差があった訳で、全国的に捉えた場合、時間の経過と共に尚のこと我関せずの風潮は強いと感じる。