若き正宗の軌跡

87年の大河ドラマ「独眼竜政宗」、歴代大河ドラマの中で視聴率TOPの作品でもあり、何度観ても楽しめる内容を持っている。愚生は今の地に越して12年になるが、以前は大内定綱が領主を務めていた小浜(現二本松市)に住んでいた。
小浜では天正十三年(1585年)、二本松城主の畠山義継と手を組んだ定綱が伊達家に対抗、正宗の進攻を受ける。この時まだ若き正宗は、感情のまま深く思慮することもなく老若男女問わず惨殺(小手森城の撫で切り)を行うなど、近隣の諸大名に反発心を抱かせる。


その後和議を申し出た畠山義継に対し無理難題を仰せ付け、話の拗れにより正宗の父輝宗が義継に拉致される。義継は輝宗を拉致したまま二本松城に入ろうとするが、急を聞き駆け付けた正宗によって輝宗共々銃撃された。
また本宮市の四号線沿いには佐竹、蘆名氏など三万の反伊達連合軍と戦った人取橋があり、この地には戦死した伊達家重臣、鬼庭左月の墓とともに旧跡が残っている。


青年期の正宗は家族や家臣の意見を聞くことも無く自由奔放であり、勝ち戦が続いたから良いものの非常に危うい行動を伴っており、夢は東北制圧に留まらず日本全土に及ぶが、やがては豊臣秀吉や徳川家康の強大な力の前に屈することになる。
併し影では一揆を先導したりと相変わらず危ういことを続けるのだが、秀吉や家康の器量は自分の敵わぬものと次第に自覚、人が天下を選ぶのではなく、天下が人を選ぶと悟る。


その後の正宗は自らの野心を捨てひたすら徳川幕府の安泰に尽力するが、このドラマの面白い所は青年時代の傍若無人さと晩年の落ち着いた様である。つまりは大海を知り家族を持ち、人の教えに耳を傾け徐々に大人になって行く姿だと思う。秀吉役の勝新太郎、家康役の津川雅彦が劇半ばから出演するが、流石に重厚な演技を見せます。更に片倉小十郎役の西郷輝彦が全般で光っており、伊達成実役の三浦友和も無骨な武将を演じ切っている。


という訳で、若き正宗の軌跡を辿ってみた。


■小浜城 (二本松市小浜字下館)

小浜城は伊達政宗の会津侵攻の拠点として天正十三年(1585)から翌年にかけて居城したことで知られる。政宗在城中に父輝宗が宮森城にいたが、二本松城主畠山義継によって連れ去られ、有名な粟ノ須の変事が起こった。この城の成立は奥州探題の置かれた塩松城(四本松城)の支城として南北朝争乱期に創築、室町時代には大内定綱の居城となっていた。


政宗は白石若狭を城代として、天正十八年以降は若松城の支城として蒲生氏が入った。その後上杉氏が慶長三年(1598)、蒲生秀行が慶長六年(1601)、加藤氏が寛永四年(1627)に会津城主となり、寛永二十年(1643)に丹羽氏が二本松城主となるに及んで城代がおかれた。


現在、城跡には蒲生時代の石垣が残るほか、堀切、空堀、多くの曲輪跡が認められる戦国末期の東北地方屈指の大城郭である。昭和五十六年に発掘調査がされ、大型建物をはじめ、5棟分の庇付きの建築の跡がみつかっている。


■粟の巣古戦場 (二本松市沖一丁目)

天正十三年(1585)九月二十五日、小浜城主大内氏が滅亡すると、直接伊達政宗と対峙することになった畠山義継は十月六日宮森城(安達郡岩代町小浜字上館)を訪れ、伊達輝宗に講和について政宗への仲介を依頼した。
その晩、輝宗は政宗のいる小浜城を訪れ重臣を招集して談合したが、この時政宗は南は杉田川、北は油井川の間の五ヶ村を残し領地を全て召し上げ、また義継の子息を人質として米沢に差し出させるという厳しい条件を示した。
これに対し義継は、召し上げは杉田川以南か油井川以北の何れかにして欲しいと懇願したが政宗は同意しなかった。十月七日講和条件を受諾した義継は政宗と会見して、その日は塩松に一泊した。


翌八日義継は講和を仲介してくれた輝宗に御礼を述べるため宮森城を訪れたが、帰り際に義継は見送りに出てきた輝宗を突然拉致し、輝宗を伴った畠山主従は城を出ると二本松領目指して国境へと走った。高田原(粟の巣)に至ったとき、急を聞き駆けつけた政宗が追いつき、周囲を取り巻く伊達勢に義継を父輝宗と共に撃てと下知して義継以下畠山勢五十余人(百余人ともいう)が撃ち殺され、輝宗も共に殺害された。


87年の大河ドラマ「独眼竜政宗」では河畔でのシーンとなるが、実際この周辺に川はなく、二本松と小浜を隔てる阿武隈川まで凡そ2km程ある。


■人取橋の戦い (本宮市青田字茂庭)

粟の巣の変の後、正宗は二本松攻めを断行する。一万三千の兵を率いて二本松城を攻囲するが、畠山氏は義継の遺児、国王丸を擁して立て籠もった。 城も落ちないまま一ヶ月が過ぎた頃、畠山氏救援のため、南奥に勢力圏を確保していた佐竹義重が畠山氏救出の名目で蘆名・石川・二階堂・白河結城・相馬・岩城などの諸氏を糾合して三万の連合軍を結成し須賀川へ進軍してきた。


天正十三年(1581)十一月十七日、ついに伊達軍と連合軍は人取橋付近で激突する。戦いは終始伊達軍の劣勢、敗走を重ね鬼庭左月をはじめ多くの犠牲者を出し、瀬戸川館に陣を布いていた伊達成実は挟撃を受け、それでも退かずに討ち死に覚悟で奮戦した。 伊達軍は壊滅寸前にまで追い込まれたが、幸運にも壊滅前に日没を向かえ連合軍は一旦引き上げた。


明けて十八日、伊達軍にとっては奇跡とも思える出来事が起きる。一夜にして三万の連合軍が撤退していたのである。 政宗は幸運にもこの最大のピンチを乗り切ることに成功、連合軍の様子を伺いつつ小浜城へ移った。連合軍の撤退理由は、主力である佐竹氏の将総帥、佐竹義政が家臣に刺殺されるという事態が発生し、更に留守の本国常陸に隣国の里見氏らが攻め入る動きを見せたのである。 この報を知った当主、佐竹義重は一夜にして撤退を決め、盟主と仰ぐ佐竹氏が撤退すると他の諸氏も各々撤退に入った。