ラストサムライ 池田七三郎

昭和十三年(1938)、一月十六日、新選組最後の隊士、稗田利八こと池田七三郎が没した。九十歳の長寿を全うした彼は、慶応三年(1867)の秋に江戸で行われた隊士募集にて入隊。入隊時十七歳の彼は、まだ年少のため近藤勇の小姓のような仕事をしていたという。


入隊の翌年、慶応四年一月三日、鳥羽伏見の戦いが始まり初陣を飾るが、腹部に銃弾を受け負傷したまま富士山丸にて江戸へ戻る。三月には甲陽鎮撫隊として甲府に出陣するも、銃弾が右耳から鼻へと貫通する大怪我を負う。その後、新選組が会津へ向かう際、まだ立つことさえ侭成らぬ身体でありながら、同行を嘆願し戸板に乗せられながら先発隊として搬送される。


会津にて怪我の具合も徐々に回復し本隊と合流、三番組々長であった斎藤一の隊長付きとなる。八月二十一日、母成峠の戦いの敗走後、仙台へ向かう副長土方歳三と意が異なる斎藤一と共に会津に残り、十数人の隊士と如来堂村に布陣する。九月五日、官軍の強襲に壊滅状態に陥るも脱出、水戸へ向かう。十月五日、銚子付近にて高崎藩兵に捕えられ江戸にて謹慎。数ヵ月後放免され、彼の戊辰戦争は終わりを告げた。


如来堂村から脱出し、新選組へ復隊せず逃亡した行動を彼は終世恥じるべき行いと省みるが、今の平和な時代に於いてこんな一途な志や生とは死とは果たして善なのか恥なのか、様々な方向から考えさせられる。

画像は晩年の池田七三郎。紋付袴姿で正座し日本刀を持つその姿は神々しく、そして凛とし鋭い光陰を発っしている。そういえば二番組々長であった永倉新八は、晩年孫と映画館へ通うのが何よりの楽しみであったという。ある日その映画館でやくざに絡まれたが、鋭い眼光のみで相手を威嚇したと伝わる。


両者ともその鋭いオーラのようなものこそ、武士の武士たる印、気だと思う。そして昭和初期まで新選組隊士が存命していたという事実に驚き、歴史とは遠くにありて近いものだと改めて感じる。