写真はプリントして写真となる

私というものがこの世に存在しなくなった時、果たして何が残るのだろうか。財産の類は元々ないのでそれらはさて置き、生きてきた軌跡とでもいうのか見送った人々にはどんな記憶が残るのだろうか。


などとふと思ったのだが、大概は個々の記憶の中にその人の生き様や物事の考え方になるのだろうか、芸術性や感性の所在というものは何かしらの形として残さない限り何れ風化すると察する。幸い私は今のところ写真を趣味とし、それらは芸術や感性と掛け離れた稚拙な内容ではあるが、後々に残る何かしらの形のひとつかも知れない。


併しデジカメが主流である現在に於いて、PCの中に保存したままでは残る形のひとつにならないと思う。というのもそのPCのオーナーが亡くなった際、残された家族や親戚などなどPCを必要とする人だけしか電源をONにすることはないだろう。更には写真を見るのは写真が好きな人間くらいで、容量の多い画像データは削除される、ないしもっと云えばPC自体が廃棄処分になる可能性も高い。


個人的な考え方としてカメラで撮ったPC内のデータは画像であり、プリントして初めて写真になると思っている。つまり芸術性や感性の所在を何かしらの形として残そうとする場合、老若男女、誰もが手にすることが出来る写真という形に置き換える必要がある。


これらは死後云々のことだけではなく、3.11の際、停電で電気が無ければ何も見ることが出来ないデジタル機器の無能さを改めて気付き、もしかして焦燥した中で昔々撮った風景でも眺めればちょっとは気持ちが変わっていたかも知れない。また話しの流れがやや異なるが、以前の記事で二重三重のバックアップが必要と記したように、プリントもバックアップの一つと云える。

この数年、毎月三枚程を選び四切りでプリントしている。裏には撮影月日と場所、そして露出データを貼り付け一枚一枚をビニール袋に入れ保管する。発表や展示などなど特にそういったことには興味が無く、会社のホワイトボードに磁石で数枚張っておく位だが、来社する人の中には今月はどんな写真かと楽しみにしている人もおられるようだ。


然るに私にとっての写真とは、何時でも誰でも直ぐに手にとって見れる状態にあるものであり、データ=画像以上の写真と成り得るものを撮り、プリント=選択の目を肥やそうと心掛ける。